コラム 日本美術

解説編 『仁和寺と御室派のみほとけ 天平と真言密教の名宝 』
仁和寺展を楽しむための予備知識を解説

大阪・葛井寺の《千手観音菩薩坐像》

 今回は東京国立博物館にて1/16より開催中の『仁和寺と御室派のみほとけ 天平と真言密教の名宝 』をより深く楽しむための予備知識を解説します。

  本展は5つの章で構成されています。それぞれの章ごとに、予備知識を出来る限りシンプルに、ポイントを絞って掘り下げていこうと思います。このページで予習をしてから展覧会に向かっていただければ、より質の高い鑑賞ができるかと思います。参考になれば幸いです

 レポートは別ページに書きましたのでよろしければそちらをご覧下さい。
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第一章:御室仁和寺の歴史

 第一章では、皇室との深い関わりゆえに数多く残された天皇直筆の書(宸翰)を中心に、肖像画や聖教類などによって仁和寺の歴史を辿ることができます。ここでは、その成り立ちを解説します。

皇室出身者が住職を務めた門跡寺院

 仁和寺は、京都市右京区御室にある真言宗御室派の総本山であり、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。古くから桜の名所として知られ、毎年春には「御室桜」と呼ばれる遅咲きの桜を見るために多くの人々が訪れます。

 その歴史はおよそ1130年前、仁和二年(886年)第58代光孝天皇によって大内山麓に「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。 しかし、光孝天皇はその翌年に志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が父である先帝の遺志を継ぎ、仁和四年(888年)に完成しました。その後、寺号は創建時の元号から仁和寺となりました。

f:id:async-harmony:20180127191412j:plainNo.1《宇多法皇像》室町時代 15世紀 仁和寺
f:id:async-harmony:20180127191254j:plainNo.2(展示は2/12まで)《宇多法皇像》江戸時代 慶長十九年(1614) 仁和寺

 在位10年の寛平九年(897年)、宇多天皇は醍醐天皇に譲位、その2年後の昌泰二年(899)に東寺の益信を戒師として出家し、法皇ならびに仁和寺第一世 となります。そして宇多法皇は、仁和寺内に宿坊である“御室”(おむろ)を造営し隠棲しました。建物は「御室御所」と呼ばれ、やがて“御室”は仁和寺自体の別称となったのです。(余談ですが、現在地名にもなっている「御室」は、大手電機機器メーカーとして知られる「オムロン」の創業地であり社名の由来でもあります。)

 宇多法皇は益信から受けた法流を、孫である寛朝やひ孫の済信へと授け、さらに仁和寺第二世となる性信入道親王へと継承されます。そして、その後も天皇の皇子や皇孫などの皇室出身者が住職(門跡)を代々務めたことから、仁和寺は平安から鎌倉時代にかけて門跡寺院として最高の格式を誇りました。また、そのような理由から歴代天皇の厚い帰依を受け、多くの優れた寺宝が伝わったのです。

天台宗寺院として始まる

 現在は真言宗御室派の総本山として知られている仁和寺ですが、創建当初は天台宗の寺院として機能していました。宇多天皇は、幼少のころから毎年、天台宗総本山である比叡山延暦寺にて仏道修行を続け、17歳のころには既に出家の志をもっていたといわれています。即位後も延暦寺にて施しや放生を行うなど、天台宗とは深いつながりをもっていたのです。実際に宇多天皇は、父・光孝天皇のいとこであり天台宗の僧侶、幽仙を初代の別当(寺務を統括する長官に相当する僧職)に据えています。

しかし、その後まもなくして仁和寺は真言宗の寺院となります。

宇多天皇の出家を機に真言宗寺院へ

 仁和寺の真言宗寺院化は、宇多天皇が出家する際に戒師とした東寺の長者(別当にあたる役職)益信が真言宗僧だったことが始まりです。ちなみに東寺は真言宗の開祖、弘法大師空海が真言密教をひろめる拠点とした寺でもあります。そして昌泰三年(900)には、仁和寺別当を幽仙から真言宗僧の観賢に交替させます。こうして仁和寺は、真言宗寺院として定着しました。

第二章:修法の世界

 第二章では、真言密教における修行の方法である「修法」を、数々の曼荼羅や仏画、法具などを通して学ぶことができます。では、そもそも真言密教とはどういったものなのでしょうか。それを知ることで“信仰”に対する人々の思いを感じることができます。

真言宗、密教とは

 約2500年前に生まれた仏教は、長い歴史の中でアジア各地へと広がっていきますが、その過程で解釈や考え方の違い、その地の文化の影響などにより幾度も分裂し枝分かれしていきます。日本伝来後も教義、信仰対象などの違いからさらに細かく分かれていき、様々な宗派が生まれます。今ではその数何百ともいわれる日本仏教の宗派ですが、そのなかで中心的な宗派の一つが真言宗です。

 真言宗は空海が中国(唐)で学んだ密教の教えが基となっています。密教が必ずしも真言宗という訳ではありませんが、真言宗は密教の教えによって成り立っているためしばしば真言宗自体を密教と呼ぶ場合もあります。その教えの中心となるのが、現世においてこの身のまま悟りを開き仏になる「即身成仏」です。それまでの宗派では、悟りを開くには“三劫”と呼ばれる果てしなく長い時間の修行が必要だと説かれているのに対して、密教ではこの現世において瞬時に悟りを得て仏になることは可能だと説いています。

 真言密教における本尊は「大日如来」です。「即身成仏」は究極的には自身が大日如来と一体化することと言えます。 宇宙の根源、万物を司るともいわれる大日如来は全ての仏、菩薩とつながっているとされています。  ゆえに真言宗では、数多く存在する仏や菩薩などの全てを否定しないため、 寺院ごとの本尊は必ずしも大日如来というわけではないのです。また、修行者を守護し、信仰しない人々を導く役目を担っている不動明王は大日如来の化身とされています。

修法において仁和寺が担った役目

 真言密教では、我々は誰でも仏となりうる可能性があるという即身成仏の教えが説かれていますが、しかし仏になるためには当然厳しい修行が必要です。修法とはすなわち、即身成仏するために必要な修行の方法のことです。煩悩を断ったり災厄を祓う『護摩』や、「阿」という字を観ながら瞑想する『阿字観』など様々な修法が存在します。また、修行者が仏と一体になったとき、超自然的な力として加持力をもつとされています。

 仁和寺ではその皇室とのゆかりの深さから、災いを祓い、幸福をもたらすための修法が国家的な行事として行われました。なかでも、産生祈願や病気平癒、天災回避などを目的とした密教修法の一つであり、孔雀明王像を本尊とする孔雀経法は平安時代後期以降、仁和寺が権威化、秘法化を進めて独占的に行いました。「無双の大秘法」とまで言われ、その絶大な効果が期待されたのです。

 f:id:async-harmony:20180202153309j:plainNo.48 《孔雀明王像》中国・北宋時代 10~11世紀 仁和寺 (展示は2/12まで)

御室派

 いくつも枝分かれした先の一つである各宗派ですが、そのなかでもまたさらに“分派”という形で枝分かれしています。特に真言宗は日本の仏教宗派において最も分派の多いものの一つです。現在は約50の分派が存在しますが、そのうちの主要な16派・18の総大本山は真言宗十八本山と呼ばれ、仁和寺および真言宗御室派もそのなかに含まれます。皇族からの厚い帰依を受けていたこともあり、応仁の乱によって仁和寺が焼失する以前、仁和寺五世覚性入道親王のころには、日本仏教界において最も強い影響力を持つ宗派でもありました。現在では日本全国に御室派寺院は約790も存在しており、仁和寺はそれらのトップに立つ総本山なのです。

第三章:御室の宝蔵

 第三章では、宇多法皇崩御の際に仁和寺ならびに御室派諸寺の宝蔵に伝わった膨大な数の宝物の中から、国宝《医心方》(No.101)などの重要な史料、書画や工芸の名品の数々が展示されています。

仁和寺の宝蔵に移された御物の目録《仁和寺御室御物実録》

 宇多法皇は崩御する9日前の承平元年(931)7月10日に、御室にあった数々の宝物を仁和寺の宝蔵に移しました。その数なんと350点以上だったそうです。その後天暦四年(950)に点検が行われた際に作成された目録がこの国宝《仁和寺御室御物実録》(No.100)です。また、今後宝蔵を開ける場合には、仁和寺別当をはじめ本巻に署名した人全員が立ち会わなければならないと記されており、これらの宝物が厳重に管理されていたことがうかがえます。ちなみに、承平の宝物移動の際に作られた実録帳が紛失してしまったために改めて作成されたものなのだそう。

日本における現存最古の医学書《医心方》

 全30巻からなる日本において現存する最古の医学書とされる国宝《医心方》(No.101)は、平安時代の鍼博士・丹波康頼が天元五年(982)に撰述、清書したのち、永観二年(984)に奏進しました。中国の前漢、隋・唐時代の医学書を100種類以上使ってまとめられており、それらには現在失われてしまったものも多いため、中国の医書研究においても重要視されてきました。仁和寺に伝わった本帖は仁和寺本と呼ばれる写本ですが、半井家本と呼ばれる最古の写本に次ぐ古いもので大変貴重です。

第四章:仁和寺の江戸再興と観音堂

 第四章では、僧侶の修行道場として普段は非公開の観音堂が、実際に安置されている仏像33体と壁画で展示室に再現されています。本展が、現在行われている観音堂改修工事を記念して開催されたがゆえに実現した特別な空間です。また、応仁の乱で焼失した仁和寺の江戸再興に関する諸作も併せて展示されています。

焼失と再興

 仁和寺は長い歴史のなかで何度も災害等に見舞われていますが、最も大きな被害を受けたのは応仁元年(1467)に始まった応仁の乱によるものです。京都全域が壊滅状態になり、仁和寺も伽藍が全て焼失しました。そんななか、今に伝わる仏像や経典、宝物などは、真光院という寺に移されていたために奇跡的に難を逃れたと考えられます。

 そして江戸時代初期、覚深法親王が将軍徳川家光に働きかけたことで再興が始まります。寛永十七年(1640)に御所の建て替えが決まり、翌年から天皇の御所であった紫宸殿、清涼殿、常御殿も仁和寺に移築され、堂舎に改築されました。それも皇室との深いつながりをもつ仁和寺だからこそ受けることができた配慮と言えるでしょう。ちなみに現在の金堂はその時移築されたものです。寛永十八年(1641)から正保元年(1644)頃にかけて観音堂が再建され、現在安置されている仏像33体も制作されました。

「千手観音菩薩」とその眷属「二十八部衆」

 観音堂に安置されているのは、本尊である《千手観音菩薩立像》(No.147)、脇侍として《降三世明王立像》(No.148)と《不動明王立像》(No.149)、《二十八部衆立像》(No.150)と《風神・雷神立像》(No.151)の合計33体。千手観音の脇侍として不動明王と降三世明王が選ばれているのは非常に珍しいことです。

 千手観音は「千手千眼観音」とも呼ばれ、その名の通り千本の掌に一つずつ眼をもち、さらには頭上に十一面(もしくは二十七面)をもっており、それらで無限の世界の人々を余すところなく見守っています。多くの千手観音像では1本の手で「25の世界」を救うとされ、本来の2本の手を除く40本の手(脇手)で表現されます。ここで言う「25の世界」とは、『三界二十五有』のことで、天上界から地獄まで25の世界があるという考えです。(ちなみに俗に言う「有頂天」とは二十五の有の頂点にある天上界のことを指します)また、脇手には、宝珠や蓮華、法輪など人々を救ったり、煩悩を払ったりするための様々な持物を持ちます。

f:id:async-harmony:20180204183211j:plainNo.147《千手観音菩薩立像》江戸時代 17世紀 仁和寺

  二十八部衆は、千手観音が従える眷属たちで、東・西・南・北・上・下にそれぞれ四部ずつで二十四部、北東・東南・南西・西北にそれぞれ一部ずつで四部、あわせて二十八部となります。多くは仏教に取り入れられたバラモン教やヒンドゥー教などの異教の神々であり、仏教ならびに修行者を守護します。この二十八部衆は、空海によって日本に持ち込まれた『千手観音造次第法儀軌』という経典が典拠となり広まりました。最も有名なのは、京都、蓮華王院三十三間堂のもので、非常に貴重な等身大の二十八部衆像が安置されています。ちなみに、仁和寺観音堂では、二十八部衆に風神・雷神を加えて三十尊となっていますが、これは三十三間堂にならったものです。

f:id:async-harmony:20180120015127j:plainちなみにこちらの観音堂再現エリアに限り写真撮影可能となっています。

第五章:御室派のみほとけ

 第五章では、仁和寺および全国に約790寺存在する御室派寺院のなかから選りすぐりの仏像が全部で31体展示されています。(No.167 千手観音菩薩坐像の展示は2/14から)そのなかには、普段は公開されていない貴重な秘仏も複数含まれています。

創建当時の本尊・国宝《阿弥陀如来坐像》

 仁和4年(888)の仁和寺創建時に、宇多天皇が父である故光孝天皇の一周忌法会を行った際の本尊が《阿弥陀如来坐像(および両脇侍立像)》(No.152)です。現在は仁和寺霊宝館に安置されています。腹前で両手を重ね合わせる「定印」という手の形をした日本の阿弥陀如来像のなかでは、制作年がわかる現存最古の像です。ちなみにこの像が結んでいる定印は正確には「阿弥陀定印(妙観察智印)」という阿弥陀如来のみが組む形(印相)で、深い瞑想に入っていることを表しています。この像がきっかけとなり、平安時代を通して定印を結ぶ阿弥陀如来像が盛んに造像されるようになりました。

唯一千本以上の手を持つ千手観音像 大阪・葛井寺本尊、国宝《千手観音菩薩坐像》

 大阪府藤井寺市にあり、西国三十三所第五番札所である葛井寺の本尊が国宝《千手観音菩薩坐像》(No.167)です。毎月18日のみ開帳されるこの秘仏は、天平彫刻の最高傑作の一つとされています。神亀二年(725)に、聖武天皇が発願し、伝説的な仏師である稽文會と稽主勲の親子2代にわたり制作され、行基が開眼したと寺伝には伝えられています。前述のように多くの千手観音像は、40本の手で千手をあらわすのが一般的ですが、本像は大手40本、小手1001本のあわせて1041本をもち、日本の古代中世の作品としては唯一千本の手が確認されている像です。体躯は奈良時代に流行した脱活乾漆造という技法で造られています。粘土で造った像の原形に麻布を張り漆で固め、漆と木屑を混ぜたもので細かく造形し、粘土を抜き取るというものなのですが、保存が極めて難しく、現存する脱活乾漆仏は大変貴重です。ちなみに、この像が東京で観られるのは江戸時代の出開帳以来のことです。(こちらの展示は2/14からとなりますのでご注意下さい)

f:id:async-harmony:20180204184154j:plainNo.167《千手観音菩薩坐像》奈良時代 6世紀 大阪府・葛井寺蔵

福井・中山寺の本尊《馬頭観音菩薩坐像》は33年に1度しか開帳されない秘仏

 福井県高浜町の若狭湾を一望できる青葉山中腹に建つ、北陸三十三カ所観音霊場第一番・中山寺の本尊である重要文化財《馬頭観音菩薩坐像》(No.162)は、33年に1度しか開帳されない秘仏です。彩色、台座、光背いずれも鎌倉時代の制作当時のものが残されているところからも厳重に守られてきたことがうかがえます。3つの顔と8本の腕をもち、胸の前で馬の口をあらわした「根本馬口印」を結んでいます。海上交通の守り仏として広く信仰を集めてきたこの像ですが、若狭湾周辺にはこのほかにも馬居寺や松尾寺に馬頭観音像が伝えられています。馬頭観音が単独尊として祀られていること自体がそれほど多くないなか、一つの地域に集中しているのは特異なことです。この地域の特殊な信仰のあり方が示されていると言えるでしょう。

f:id:async-harmony:20180204182703j:plainNo.162《馬頭観音菩薩坐像》鎌倉時代 13世紀 福井県・中山寺蔵(中山寺ホームページより)

最後に

 ということで、『仁和寺と御室派のみほとけ 天平と真言密教の名宝 』の解説でした。最初に書いた通り、自分なりにポイントを絞り、出来る限りシンプルに解説させていただいたつもりです。たとえば、仁和寺の歴史も辿っていけば他にも様々な出来事があるわけですし、真言密教については本来あのように短く解説することなど到底できません。ですから、あくまでも“展覧会をより深く楽しむための予備知識”と割り切っていただけたらと思います。少しでもみなさんの展覧会鑑賞の手助けになったら幸いです。

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開催概要

会期:2018年1月16日(火) ~3月11日(日)
会場:東京国立博物館 平成館(上野公園)
開館時間:9:30~17:00(入館は閉館の30分前まで)
(ただし、金曜・土曜は21:00まで開館)
金曜、土曜に加えて、3月4日(日)、3月6日(火)、3月7日(水)の3日間も21:00まで開館(入館は20:30まで)
休館日:月曜日(ただし2月12日(月・休)は開館、2月13日(火)は休館)

観覧料金

<p一般1600円(1400円/1300円)、大学生1200円(1000円/900円)、高校生900円(700円/600円) 中学生以下無料
* ( )内は前売り/20名以上の団体料金

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